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お客さんが元気になる演歌の如く、人々にカメラを向けたドキュメンタリーを作りたい…『水俣曼荼羅』原一男監督に聞く!

2021年12月31日

日本の4大公害病の水俣病をテーマにした3部構成、6時間超のドキュメンタリー大作『水俣曼荼羅』が関西の劇場でも1月2日(日)から公開。今回、原一男監督にインタビューを行った。

 

映画『水俣曼荼羅』は、『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』『ニッポン国VS泉南石綿村』などを世に送り出してきたドキュメンタリー映画の鬼才である原一男監督が20年の歳月をかけて製作し、3部構成・計6時間12分で描く水俣病についてのドキュメンタリー。日本4大公害病のひとつとして広く知られながらも、補償問題をめぐっていまだ根本的解決には遠い状況が続いている水俣病。その現実に20年間にわたりまなざしを注いだ原監督が、さながら密教の曼荼羅のように、水俣で生きる人々の人生と物語を紡いだ。川上裁判で国が患者認定制度の基準としてきた「末梢神経説」が否定され、「脳の中枢神経説」が新たに採用されたものの、それを実証した熊大医学部の浴野教授は孤立無援の立場に追いやられ、国も県も判決を無視して依然として患者切り捨ての方針を続ける様を映し出す「第1部 病像論を糾す」、小児性水俣病患者である生駒さん夫婦の差別を乗り越えて歩んできた道程や、胎児性水俣病患者とその家族の長年にわたる葛藤、90歳になってもなお権力との新たな裁判闘争に懸ける川上さんの闘いの顛末を記した「第2部 時の堆積」、胎児性水俣病患者である坂本しのぶさんの人恋しさとかなわぬ切なさを伝え、患者運動の最前線に立ちながらも生活者としての保身に揺れる生駒さん、長年の闘いの末に最高裁勝利を勝ち取った溝口さんの信じる庶民の力などを描き、水俣にとっての“許し”とはなにか、また、水俣病に関して多くの著作を残した作家である石牟礼道子さんの“悶え神”とはなにかを語る「第3部 悶え神」の全3部で構成される。

 

ドキュメンタリー制作にあたり「現場には、攻める側と攻められる側がある。彼等の間にある葛藤をカメラでドラマチックに捉えよう」というスタンスがある原監督。基本的に2台のカメラを用いて、カットバックが出来るように撮っている。国や県の官僚らと対峙して交渉する場面を撮影するにあたり「行政は本気で全うに解決の道を図らない。原告団は抗議する側となり、基本的に攻める。批判する側と避ける側による敵対する位置関係にあります。机の並び方も向き合う形で作られている。撮るにはカットバックしかありえない」と判断。撮影前には打ち合わせをしており「お互いのカメラが画に映り込んでいるが、ドキュメンタリーだからしょうがない。本質的には大事な問題ではない。カットバックになるように画面の外で目線が交錯する。目線がバチバチとぶつかって火花を散らすことで成立している前提で撮っている劇映画のようにドラマチックな狙い方をしよう」といつも考え、現場で撮っている。とはいえ「あぁいう場は出来レースに感じて、本当はあまり撮りたくない」と本音を漏らす。「現場には、役所は下っ端しか出さない、上役は影に隠れて表に出てこない。だから患者さんを前にして怒らない。役割は決められている」と理解しており「原告側は事情を知っている上で、思い切り罵倒する。日頃の鬱憤が溜まっているので、大声を出すこともしばしばある。人数が多く声を荒げ、圧倒的に攻めの印象を与える」と画にも反映。客観的に現場を見つめ「基本的に憎たらしい人は出てこない。小池百合子環境大臣の際には珍しく憎たらしい人が顔を並べていたが、普通は新人のような人間を出してくる。すると、攻めている側が虐めているように見える。役所側は本気で論争しないように予め決められている」と戦略を認識し「それでも、患者側は日頃の鬱憤を言える場所はあそこしかない。個別で役所に伺っても相手は会ってくれない。交渉の場だけは言いたいことが言える場なので、記録として撮っておかないといけない」と葛藤を経た上で撮影している。「映画的なおもしろさがある画を撮らないと、おもしろい映画は出来ない。感情に任せず基本を大事にして狙って撮っている。対立構造があるならば対立がしっかり分かるように映像として撮っていく」と基本的な態度を明確にして挑んでいた。

 

「第1部 病像論を糾す」は、国や県が新設を無視し依然として患者切り捨ての方針を続ける様を映し出す。「水俣病は、手足が痺れる、舌の感覚が痺れる、痛みに対して鈍くなる、つまり、感覚が鈍くなる症状によって診断される。末梢神経がダメージを受けることが水俣病である、という理解が行き渡っている」という従来の学説に対する浸透度を踏まえ「末梢神経ではなく、メチル水銀が体内に取り込まれ、感覚神経を司っている脳がダメージを受け、脳から発する神経の出先である感覚が鈍くなる、という学説を打ち出したのが浴野さん達の仕事」と説く。「あらゆる動物の中で、人間が一番の優位性を持つのは、長い歴史の中で五感を通して文化を生み出し享受してきたことにある」と考えると「五感にダメージを受けたらどうなってしまうのか」と言わざるを得ず「考えれば考えるほど水俣病は恐ろしい病気」とゾッとしてしまう。そこで、浴野さん達の取り組みを作品に反映するならば「通常は、学説を裏付ける実証を撮り映画に組み入れ、お客さんに提示する」と検討するが「私達は、実証する姿を撮ろう、という意識では体が動かなかった」と明かす。本作の見どころとして「逆に、症状を抱える患者さんの人間らしいところを撮ろう、と意識的に撮っている。水俣病を患い、どうすることが出来ずとも元気に頑張って生きている姿を撮っている」と述べ「ドキュメンタリーは演歌、だと考えている。演歌は人生を歌っており、共感して元気が出る。観ている人が元気になってしまう人にカメラを向けたい」と作り手の本能として湧き上がってくる思いを語る。

 

「第2部 時の堆積」では、原監督が小児性水俣病患者の生駒さんに私生活まで深く取材していく。その理由として「水俣病は100年近く本質的な解決が図られてこなかった。患者さんは過酷な状況の中を生きてきたし、これからも生きていかないといけない。水俣病は人間の意識へどのように影響しているのか、デリケートなことを視ていかないといけない」と挙げる。生駒さんに水俣を存分に案内してもらい仲が良くなった時点で、新婚旅行に関することを聞いた際に深くたずねており「普通なら聞かないでおくことが礼儀だと思われていますが、水俣病がどのように忍び込んでいるのか聞いてみないと分からない。聞いてこそ知ることが出来る。遠慮していたら分からない」と、覚悟を決めてインタビューしていった。「ドキュメンタリーを作る人間はプライベートな領域に入っていかざるを得ない。入っていく時に自ずと礼儀は重んじている」と映画監督としてのモラルは大切にしており「ギリギリの一線は超えないようにルールを自分の中で設定しながら聞いていかないと、水俣病の過酷な運命は描けない」と認識している。

 

「第3部 悶え神」では、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんと共にかつての恋路を辿っていくセンチメンタルジャーニーを描く。原監督が水俣市に通い始めた1,2年目の頃に坂本さんを知り「地元の中では、しのぶさんが恋多き女というのは有名な話。ほとんど成就しないが、呆れながらエピソードを語り愛すべき人間だと感じている人達による共同体が出来上がっている」と気づき、作り手として「坂本さんの話を聞く意味がある。どういうシチュエーションなら恋多き女しのぶさんのシーンが撮れるだろうか」と検討。水俣病被害者や障碍者の方々が様々な思いを込めて作られた詩に曲を付けて発表される「もやい音楽祭」で坂本さんの出演を知り、撮影していく中で、彼女の目尻に涙がキラッと光ったように見えた。「目の前に好きな人がいた」と聞き、驚きながらも「恋多き女しのぶさんを映像として撮らせてもらいたい。好きになった人を訪ねていって、好きになった時の気持ちを話してみませんか」と提案し、坂本さんも賛同。とはいえ、坂本さんは、水俣病患者のシンボルに位置づけられている人であり、地元の小中学校が水俣病に関する授業をする時には呼ばれたり、病院や習い事への通いがあったりと、スケジュールが埋まっていた。そして、水俣病であるため体調にもより、気分屋な一面もあり、1年に1人のペースで辿っていく。だが「本当は好きになった方は2桁に及ぶが、3人を終えた時点で坂本さん自身が飽きている」と感じ、撮影を終えている。坂本さんのエピソードを聞きながら「彼女は世の中へ1人で飛び出して自立して自活することが夢だけど、実際には出来ない。外からやってくる人達は自分が体験したくても体験できないような世界を持ってきてくれる。好きになった男性が持っている世界に惹かれている」と意味があることを理解し、楽しくも悲しく深いシーンであると感じていた。

 

本作の撮影には15年を要したが、13年目を迎えた頃から、自然と「そろそろ終わってもいいかな」と考えるようになっていく。クランクインした頃には見通せていなかったが「これ以上ねばっても新しい人と出会って撮りたいと思う出来事が起きないだろう」と監督自身の中でも感じていた。「今回は様々な人物が登場します。登場人物に沿ってストーリーが込められているので、各々のストーリーの締めを作り手は考えないといけない。しかも多岐に渡って様々な物語を抱えた人達が出てくるので、一つ一つにラストを作っていかないといけない」と認識しており「第3部になると、ラストシーンが連続していく圧巻の作りになっている」という声も届いている。「ドキュメンタリーの基本は問題提起」だと提言するが「6時間の作品のオールラストについて13年目ぐらいに考え始めたが、なかなか思いつかない」と吐露。「石牟礼道子さんをオールラストのラストシーンにもっていきたい」という気持ちをずっと抱き「道子さんが外に出る機会は滅多にないんですが、特別に連れ出す機会を設けて頂き、ラストシーンが撮れた」と万感の思いを以て本作を終えられた。

 

映画『水俣曼荼羅』は、関西では1月2日(日)より大阪・十三の第七藝術劇場、1月28日(金)より京都・烏丸御池のアップリンク京都で公開。

キネ坊主
映画ライター
映画館で年間500本以上の作品を鑑賞する映画ライター。
現在はオウンドメディア「キネ坊主」を中心に執筆。
最新のイベントレポート、インタビュー、コラム、ニュースなど、映画に関する多彩なコンテンツをお伝えします!

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