“デュオ安楽死”を選択した高齢夫婦を描く『両親が決めたこと』がいよいよ劇場公開!
©2024.LASTOR MEDIA, KINO PRODUZIONI,ALINA FILM ALL RIGHTS RESERVED.
末期がんの転移で自我の喪失が間近に迫る妻と、夫との“デュオ安楽死=夫婦同時安楽死”という決断、3人の子供たちの戸惑いと反発を描く『両親が決めたこと』が2月6日(金)より全国の劇場で公開される。
映画『両親が決めたこと』は、高齢夫婦のどちらかが終末期に安楽死するとき、そのパートナーが健康であってもともに安楽死する”デュオ安楽死”を題材にした家族ドラマ。ヨーロッパで急増するデュオ安楽死を決めた両親と、その子どもたちの心の機微を、ユーモアを交えながら温かく描き出す。スペイン・バルセロナで暮らす80歳の舞台女優クラウディアは、末期癌におかされている。がんは脳にまで転移し、錯乱や半身麻痺、さらに自我の喪失も近づくなか、彼女は安楽死を選択する。子育てよりも舞台優先で生きてきたクラウディアを支え続け、今なお愛してやまない夫フラビオも彼女とともにスイスで安楽死することを決意し、3人の子どもたちに打ち明ける。子どもたちは戸惑い反発するが父の意志は固く、両親はデュオ安楽死に必要な手順を進め、ついに最後の旅へと出発するときがやって来る。
本作では、『欲望のあいまいな対象』『家へ帰ろう』のアンヘラ・モリーナが妻クラウディア、『トニー・マネロ』『伯爵』のアルフレド・カストロが夫フラビオを演じた。監督は、カルロス・マルセットが務めている。2024年の第49回トロント国際映画祭で、新たな挑戦作を評価する”プラットフォーム部門”の作品賞を受賞。

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映画『両親が決めたこと』は、2月6日(金)より全国の劇場で公開。関西では、2月13日(金)より大阪・梅田のテアトル梅田や京都・烏丸御池のアップリンク京都、2月28日(土)より神戸・元町の元町映画館で公開。
先月公開された『安楽死特区』に続き、安楽死をテーマに夫婦や子供の心の移ろいを描いた本作を観た。クラウディアは末期癌を患い、転移を繰り返す中、自分が自分でなくなりそうな現状にとてつもない不安を抱えている。夫のフラビオは舞台で活躍することを第一優先にしてきた彼女を支え、愛してきた。耐え難い苦痛や不安から安楽死を選択した彼女の決断に寄り添う形で、フラビオはデュオ安楽死を提案する。しかし、夫婦には3人の子供がおり、末娘のヴィオレッタは母の病状を心配し同居を始めたばかり。それぞれ家庭を持ってから、めっきり実家に寄り付かない兄姉が久々顔を出すパーティの前日、両親の決断を知ってしまったヴィオレッタは、制止の声を振り切り、パーティの最中皆に伝えてしまう…
スイスでは積極的安楽死(医師の処置による安楽死)は認められていないが、医師による自殺幇助(医師は誘導と見守りのみで、患者が自ら死に至る行為を行う安楽死)という形が認められている。2022年にはその形を利用した死亡者が1500人を超えたそうだ。厳しい判断基準があり、医師との面談で基準をクリアしたことを認められた者が選択できるらしい。多くの場合、”治る見込みのない病気”、”耐え難い苦痛や障害”、”健全な判断能力”を問われるが、今作で夫婦が選択する”デュオ安楽死”はその見極めも難しそうだ。クラウディアは病気を患う当事者なので、面談や家族会議の中で一定の理解はできると思うが、フラビオはどうだろうか。私自身が同じ立場になったと想像すると、愛し合い、長年連れ添ったパートナーである彼女を失うという気持ちは、それに匹敵する辛さだと思う。それに、こればっかりは本人にしか分かり得ない感情だ。
更に子供が絡んでくるとより複雑になる。先程も書いたが、私はフラビオと同じ選択をすると思う。しかし、自分の両親が今デュオ安楽死を選ぶとなったら簡単に頷けない気もする。実はこの部分の葛藤を描いた映画なんじゃないかと思っている。邦題もそこを意識してか、”両親”と表記し”ふたり”と読ませている。両親の決断だけど、その前に”2人”の決断なのだから、私であれば最終的に「二人の思うままに」と言うだろう。
そんな両サイドの葛藤をさらっと描くのが本作の魅力ではないだろうか。子どもたちの思いはセリフとして語られ、三者三様の展開を見せる。特に末娘の心の動きは妙なリアリティーがあり、映画に厚みをもたらしている。夫のフラビオも自らの愛と葛藤を入り混じらせながら語ってくれる。クラウディアは舞台で活躍していたという設定を活かし、心の中をミュージカル的な演出で表現している。冒頭から驚きの表現だったが、ポイントポイントで差し込まれるためクセになったし、言葉で語られるよりも複雑な胸の内がそのまま可視化され、ビシバシ伝わってきた。
欧州ではデュオ安楽死を選択する夫婦が少しずつではあるが増えている。日本では難しいと思うが、死を一旦ゼロから考え、現状と違ったアプローチで向き合うのも悪くないのではないか…と、2026年現在に考えを置いておきたい。
fromブライトマン
スイス、安楽死、そしてこれは映画――どうしたって、ある人物が頭を掠める。
”デュオ安楽死”をどう思うか等という、いかようにも答えの出るようでついぞ出せぬ問いを繰り広げるつもりは毛頭ない。ましてや「自分だったら」に置き換えてみようにも、事態は一向に〈解決〉を見ないであろう。だとすれば、敷設された主題がいかなるショットで提示され、編集により連なり、または衝突するかに、誠意を以て向き合おう。
冒頭、いきなりの長回し。ここの実存ラインの絶妙さにまず驚かされる。ある種の神がかり行者としての凄みを体現しながら、部屋から部屋へ踊りまわるクラウディアを追いかけていく医療従事者たち。彼らはいつしか示し合わせたように主体(クラウディア)を躱し合い、一つの〈演舞〉を構成する。この作り手から差し出された〈攪乱〉に身をゆだねるほかなくなる。
斯様に本作においては、主観世界と現(うつつ)の交換作用が絡み合い、全体の流れを作り出す。前者は、病に侵されたクラウディアの舞台俳優=表現者としてのアイデンティティの表象である。バスの車内で、散歩の途中で、孫たちに披露する演劇の最中で、急激なコンテンポラリー調の舞踊とともに、映画は実存の壁を飛翔する。自らの生の幕引きを、いかなる形で、連れ添った伴侶とともにするかという、極めてシビアで当人たちでしか引き受けられない事態に対し、映画表現として大胆な異化作用で応えてみせる。ある種のラース・フォン・トリアー的ともいえる主観と現の〈越境〉は、本作の大きな力点となり得よう。
そういえば、三幕構成の体裁が守られる中で、すこしずつアスペクト比が変化していたことが思い起こされる。それぞれに意味を逐語訳的に宛がうことは無粋な真似としても、第一幕から第二幕への移行に伴い、縦幅が狭まり、シネマスコープに近い画角で家族に告知する場面が展開されたことをふり返りたい。テーブルを囲んだ親族の会話という、これからの地獄、あるいは修羅場を約束するシチュエーションのもと、夫婦と三人の子どもたちの言動。それぞれに、親との関係の切り結び方のグラデーションが、ニュアンスにより伝えられていたことが鮮明に思い出される。とりわけ、子どもたち三人が話し合うシーン。鏡のある空間で、誰と誰が最初に会話し、誰が第三の人物として介入し、最後に誰がぽつんと残されるのか。出入りの美学とも言うべき一連のショット構成は、さりげなくも見事であった。
第三幕に入ると、横幅はぐっと縮まり、ヨーロピアン・ビスタの様相を呈する。舞台はバルセロナの生家からスイスへ。雪化粧した山並みと、両親(ふたり)の終の棲家となる施設。ここで描かれるのは、ミニマムな空間と静謐に流れる〈ゆっくりとした時間〉だ。画面の登場人物は全幕中、最小の人数に制限され(ほぼ二人以上は同時に出ない)、クラウディアとフラビオの会話、あるいは末娘との邂逅が綴られていく。序盤から、現の描写において執拗にクロースアップを重ねてきた映像話法は、事ここに至り〈最後の時間〉を語るための距離へと姿を変える。
冒頭で駆使された長回しのロジックは、終盤にかけて再び表出する。ただし、その様相はまったく異なる。最初は急激な運動を伴って、今度は瞬きすら憚られるようなフィックスショットによって――。親密さは、同じことを考えているということとイコールではない。それは家族それぞれに、また夫婦にも当てはまる。敢えて終幕のタイミングを二度ほどずらす演出上の選択。そのずれから滲み出るのは、決断をめぐる主体のあり方そのものだ。すべては唯物論に帰するとでも言えようエンドロールの構成も相まって、観る側の呼吸だけが、取り残される。
fromhachi
- キネ坊主
- 映画ライター
- 映画館で年間500本以上の作品を鑑賞する映画ライター。
- 現在はオウンドメディア「キネ坊主」を中心に執筆。
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