若い助産師の成長をドキュメンタリータッチで描く『助産師たちの夜が明ける』がいよいよ関西の劇場でも公開!
研修を終えて助産師として働き始めたふたりの女性が、過酷な現場に悩み、生まれる命を見つめる様をドキュメンタリータッチで描く『助産師たちの夜が明ける』が9月27日(金)より関西の劇場でも公開される。
映画『助産師たちの夜が明ける』は、若い助産師たちが出産に立ち会う中で突きつけられる現実に驚きながらも成長していく姿を、ドキュメンタリーのようにリアルなタッチで描いたドラマ。ルイーズとソフィアは5年間の研修を終え、念願の助産師として働き始める。貧困、移民、死産などさまざまな事情を抱える人々が産科病棟を訪れるなか、助産師たちはオーバーワークとストレスに押し潰されそうになりながらも、新しい命に出会う喜びを通して結束を強めていく。
本作は、初監督作『愛について、ある土曜日の面会室』で高く評価されたフランスのレア・フェネール監督が手掛け、俳優と助産師が共に参加するワークショップを行い、これをもとにフェネール監督と脚本家カトリーヌ・パイエが共同で脚本を執筆。撮影には6つの病院を使用し、実際の出産シーンを織り交ぜながら臨場感たっぷりに描き出す。出演はNetflix映画『危険な関係』のエロイーズ・ジャンジョー、『その手に触れるまで』のミリエム・アケディウ。2023年の第73回ベルリン国際映画祭パノラマ部門で審査員特別賞を受賞した。
映画『助産師たちの夜が明ける』は、関西では、9月27日(金)より、大阪・梅田のテアトル梅田、京都・烏丸御池のアップリンク京都、神戸・三宮のシネ・リーブル神戸で公開。
日本でしきりに標榜される「働き方改革」なるものに空々しさを覚える。それが出来るのは往々にしていわゆる「大企業」側であり、本当に環境改善されなければならない業界や現場が置き去りにされているから。むしろ社会の上澄みがより一層“ホワイト”になったぶん、彼らがもともと持っていた労働に纏わる禍々しさはどこにアウトソーシングされているのか?コロナ禍を経て、効率と生産性にフォーカスできる恵まれた会社の「先進的な改革」が報道される度に、その影に在り続ける人々を思い、暗澹たる気分に襲われる。
何故こんな話から切り出したか。本作がまさに極限状態で激務に追われる助産師たちの映画だからだ。物語は2人の主人公(ルイーズとソフィア)がフランスの公立病院にある分娩科に赴任してくるところから始まる。そこから間髪入れず、出産現場の息つく暇もない混沌と絶え間ないストレスフルな状況が矢継ぎ早に映し出されていく。実際の出産シーンを取り入れ構成された一連の病棟シーンはインテンシティが高く、本作の大きな魅力であるが、「なぜ彼女たちはこんな過酷な職場環境で踏ん張る他ないのか」という根元的な批評精神がそこにあることを忘れてはならない。
先輩助産師は言う、「感傷的になるな」「個人の感情はロッカーに置いてきて」と。“割り切りのコツ”といった意味でなく、人間的な感情を持ったら最後、激務の濁流に心身を潰されてしまうから、といった哀しいアドバイスであることを我々はずっと後になって知ることとなる。
勿論、本作は悲惨な実情をジャーナリスティックに映し出すことだけに執心しているものではない。自然光を使った演出と表情を大きく映すショットの比率が高まっていくことを契機にして、ルイーズとソフィア(とコメディリリーフ的な役割を担う男性助産師)を交えたヒューマンドラマのストーリーラインが立ち上がってくる。苦楽を共にした同志だからこそ芽生える関係性があり、出産を経た女性との束の間の安寧が描かれていく。必ずしも全ての出産が幸せであるとは限らない、としっかりと描かれているのも大事な事柄だ。「環境(社会)の中での個人」が繊細に描かれるドラマ展開に、観ている側としては感情が動かされてしまった。“システム”と“人間”の間には、必ず両義的な側面が生まれる。複雑な位相をオミットせずに映し出しており、作り手としての誠実なスタンスが感じられた。しかし、最後に思うのは、これは他国(フランス)のこととして傍観できる問題であるのか?と。
fromhachi
- キネ坊主
- 映画ライター
- 映画館で年間500本以上の作品を鑑賞する映画ライター。
- 現在はオウンドメディア「キネ坊主」を中心に執筆。
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