石川県に新時代は訪れていない、本質的には何も変わっていない…『裸のムラ』五百旗頭幸男監督に聞く!
石川県を舞台に、現職知事のコロナ禍での失言や大人数での会食、政権の交代劇などを映すと同時に、市井の人々の生活をつぶさにカメラに収めた『裸のムラ』が10月14日(金)より関西の劇場でも公開。今回、五百旗頭幸男監督にインタビューを行った。
映画『裸のムラ』は、『はりぼて』で富山市議会の不正を暴き話題を集めた五百旗頭幸男監督が、新天地の石川県で制作した政治ドキュメンタリー。石川テレビで放送されたドキュメンタリー番組「裸のムラ」「日本国男村」を基に、“北陸の保守王国”石川県にみる日本の縮図を映し出す。石川県の谷本正憲知事はコロナ禍で失言や失態を繰り返し、28年に及ぶ長期県政はついに終わりを迎えた。新知事に就任したのは、谷本の選対本部長を務めていた衆議院議員の馳浩さん。馳知事が掲げたスローガンは、彼が22年前に衆議院に初当選した際と同じ「新時代」だった。一方、映画は石川県の市井の人々にもカメラを向け、同調圧力の強い社会で暮らすムスリム一家や、車で移動しながら生活する家族の姿を通し、理想や自由をめぐる葛藤と矛盾を浮かび上がらせていく。
2020年、石川テレビに転職した五百旗頭監督。勤務2日目からニュース番組の取材に向かい、県庁にも伺うと違和感を感じずにはいられなかった。また、当時のデスクから「ムスリムを取材してみないか」と提案され「コロナ禍によって、世の中の関心はコロナウイルスにしか向いていない。県内に住む少数派のムスリムは困っていることがあるんじゃないか」という視点で取材に向かった。しかし、本作に登場するムスリム一家の松井誠志さん曰く「全く何も困っていません。むしろ、居心地が良いです。これまで自分達に批判の矛先が向けられた。今は世の中の関心がコロナウイルスに向かっているから、自分達には関心が向かないので、凄く居心地が良い」と意外な反応が。しかし「コロナ禍が終わった時に再び同様の状況に戻らないか危惧している」と聞き、想定していなかった視点に気づかされた。同時に、松井さんの妻であるヒクマ・バルベイドさんが持つ言葉の強さを受け「日本社会に対する眼差しが厳しく端的である」と惹かれ、取材を申し出ていく。「コロナ禍により、社会や人間の本質が剝き出しになっている」と感じていたが「目に見えないけど明らかになっている空気を映像化したい。そのためには、県政だけ不十分。男性中心のムラ社会から弾き出されたムスリムとの対比が必要」と認識した。
だが、更なる要素が必要だと気づき「同調圧力の強いムラ社会において、全く圧力を受けずに自由に生きている人達、自分の生き方を貫いている人がいないかな」とインターネットや過去の新聞記事等で探していく中でバンライファーの中川生馬さんを発見。取材に伺うと、金沢から来ているバンライファーの秋葉さん夫妻を紹介してもらい、合わせて取材させてもらうことに。3つの要素が揃ったが、この段階では映画になることは見えていなかったが「それぞれの被写体に魅力があり、力があったのは事実。この3つは関連性はないけど、ずっとウォッチしていくと、繋がりが見え、映画として描けそうなものに収斂できれば、相応の作品になる」と予感し、撮影がスタートした。
本作の大事なキーワードとして「矛盾」があり「様々な対比を効かせることによって、矛盾を浮き彫りにする」という意図を明確にした。「ムラ社会の象徴である県政と、弾き出されたムスリムの対比。バンライファーの中でも、自由に生きている人のように見える中川さんがいれば、秋葉さんのような自由になったつもりだったけどムラ社会の目から離れられず自由になれていない人の対比」と挙げ「中川さんだけを見ても、ストーリーが進むにつれて最初のイメージが変化していくので対比できる。ムスリムでは、逆に女ムラに見えることもある。ヒクマさんが思ったことは何でも話すから、言いたいことが言えない松井さん。宗教に関しては生まれながらにしてムスリムだから、言いたいことが言えない子供達。男ムラとの対比になる」と説く。取材を続けていく中で「為政者の言葉の軽さや空虚さに対して、市井の人達が放つ言葉に手触りがある」と気づき「様々な対比を散りばめて活かすことによって、様々な矛盾を浮き彫りにしている。若しくは、3つの被写体の関連性や一致する部分が見えたり見えなかったりしながら、最終的に、このムラ社会の2つの普遍性、変わらない普遍と、様々なことに通じる普遍を感じてもらえれば」と期待を込め、様々な意図的な構成や編集をしていった。
なお、作中には、ドキュメンタリーの演出について五百旗頭監督が説くシーンがある。「自分を良く見せようと取り繕っていた秋葉さんに久々に会うと、僕に対して仕掛けてきた。あんなことをするような人ではなかった」と驚いたが、その後に浜辺を走るバンを映し出すシーンを入れており「あえて美しいシーンの前に全てを明かした上で美しいシーンを見せることによって、観ている人を揺さぶりたかった」と明かす。「ドキュメンタリーとはそもそも何なんだ」という議論に対して「ドキュメンタリーはありのまま、という間違った認識を持っている人が多いので、自分のスタンスや考え方は裸になって提示しておかなければならない」という意図も含めたシーンとして仕上げている。「人間だから多面性があることを描いている。単純ではない、複雑な人間や社会を描いている」と据えた上で「日本のTVドキュメンタリーは複雑なものを無理矢理に単純化して分かりやすく説明し、分かりやすい答えを強引に作り出して描いている。それは違うと思う」と異を唱え「素直に、複雑であり多面性を持った人間と社会をその通りに描いているだけなんです」と話す。
また、ムラの最小単位である家族に目を向けた時にも矛盾は沢山あると感じたが、今作では「家族においても無限ループの如く同じことを繰り返しているけど、救いがある」と直感。「血の繋がっている親子だからこそ、どうしようもない父ちゃんだな、とは思っても、折り合いをつけ割り切って前を向いて進んでいける」と受けとめ「(中川さんの娘の)結生ちゃんの表情からも分かる。途中は悲壮感が漂う雰囲気でしたが、次第に表情が晴れてきて、お父さんをからかっている時もあった」と観察。「ムラ社会である家族自体は否定されるべきものではない。同じムラでも救いがあることを描いた」と述べ「ムラ社会が駄目なものである、という分かりやすいつくりにしたつもりはない。様々な受けとめ方があっても良い」と柔軟な姿勢だ。
翻って、県政の矛盾は分かりやすく、周囲が辟易している。ある日、県議会が始まる1時間前から現場に入っていたカメラマンから「凄いものが撮れた」と報告を受け、プレビューしてみると、知事席に置かれる水差しに関する映像が撮れていた。「こんな意味のないものはありえない。それを大真面目にやっている。これぞ長期権力が成せる技。長期権力を忖度するが故に、こんなことを何もおかしいとは思わずにやってしまうんだ」と呆れ、様々なものが収斂されていることを察していく。「これは、使わないと駄目だな」と思い、以降は水差しが届けられる度に意図的に狙っていった。谷本さんが辞任を発表した会見や馳さんに代わっても同じことが行われていることを意図的に狙って撮っており「それぞれを見比べると、少しずつ変化があり様々な受けとめ方が出来ます。象徴的なカットとして意図的に使っています」と明かす。
会見での模様も本作には収録されている。昨年5月にドキュメンタリー番組「裸のムラ」を放送している後の会見であり、五百旗頭監督自身が警戒されていることを察した。石川テレビからはもう1人の記者が県政キャップとして出席しており、監督より前に質問しているが「僕は県政担当ではないので、キャップが質問した後に挙手している。当然当ててくれない。途中で、僕しか挙げていないのに、司会は眼中に入れてない様子だった」と振り返る。結果的には当ててもらっているが「記者クラブにも当然ムラ社会はあります。僕らのメディアも完全にムラ社会です」と冷静に言及した。
編集段階となり、本作最初の掴みとして、谷本さんによる県政を勢いよく入れている。その後、ムスリムやバンライファーの姿を映し出していく中では、時々谷本さんの姿を入れており「3つの題材を扱うので、或る程度理解してもらう必要がある。その後、馳さんが登場したことから、編集でテンポを上げ、次々に盛り上げていっている」と解説。その後、県政を遡っていくシーンがあり「普通は過去から現代に近づけていく。今回は、谷本さんと馳さんの権力闘争を描かなければならない。そこに森さんを絡ませたい。森さんのオリンピック委員会での失言を活かすためには、どのように構成すれば一番良いか」と考えると「時代を遡っていくと、さらに勢いが増していく。結局は、同じことを繰り返していることを鮮明にするための構成にしている」と意図を明らかにした。
2022年、馳浩さんが知事となったが「新時代は訪れていないです」と五百旗頭監督は断言。「本質的には何も変わっていない。女性副知事を公約に掲げ、石川県内から登用するなら期待できたが、結局は中央から呼んでおり、今までと同じことをやっている」と指摘し「中央とのパイプ作りがある。女性活躍という御題目の裏には異なる意図が見え隠れする。これこそ都合のいい女性の利用の仕方。何も変わっていない。外見だけ取り繕っても中身は何も変わらない」と分析した。
最後に、監督自身のスタンスについても「取材している僕自身も同じことを繰り返してきた、家というムラの中でも。何かを変えるならば、常に意識してやり続けていくしかない」と真摯に向き合っている。プレス向け資料やパンフレットに掲載される[ディレクターズ・ノート]には、自身が無意識に『嫁』と発言したことまで打ち明けており「僕も男村の住人であるので、無自覚なんです。指摘されないと気づかない。気づいても『嫁』と発してしまう」と認めた。そうやって、自らを丸裸にした上で「地方にいても、日本の縮図が見えてくる。この眼差しを今後も変えずに様々な作品を作っていきたい」と堅く宣言している。
映画『裸のムラ』は、関西では、10月14日(金)より京都・烏丸の京都シネマ、10月15日(土)より大阪・十三の第七藝術劇場で公開。また、神戸・元町の元町映画館でも近日公開。
- キネ坊主
- 映画ライター
- 映画館で年間500本以上の作品を鑑賞する映画ライター。
- 現在はオウンドメディア「キネ坊主」を中心に執筆。
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