48歳の独身女性が経験する青春と葛藤を描く『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』がいよいよ関西の劇場でも公開!
©- 2023 – ALVA FILM PRODUCTION SARL – TAKES FILM LLC
ジョージアの小さな村を舞台に、ブラックベリー摘み中の転落による臨死体験ををきっかけに、ある女性の人生にささやかながらも大きな変化が訪れる様を描く『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』が1月10日(金)より関西の劇場でも公開される。
映画『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』は、新しい人生を踏みだそうとする中年女性の葛藤を、ポップかつオフビートに描いた異色の青春ドラマ。東ヨーロッパ、ジョージアの小さな村に住む48歳の寡黙な女性エテロは、今まで一度も結婚したいと思ったことがない。両親と兄を亡くし、日用品店を営みながらひとりで生きてきた彼女は、自分でブラックベリーを摘んでつくるジャムと同じくらい現在の暮らしを愛している。しかし彼女が独身でいることは、村の女性たちの噂の的となっていた。そんなある日、ブラックベリー摘みの最中に崖から足を踏み外し、危険な目に遭う。そのときに死を意識したエテロは、突発的に人生で初めて男性と肉体関係を持つ。そしてそれ以来、彼女の人生は大きく変わりはじめる。
本作は、ジョージアの新進女性作家タムタ・メラシュビリの大ヒット小説を原作に、エレネ・ナヴェリアニ監督が手掛け、ジョージアで舞台を中心に活躍してきたエカ・チャブレイシュビリが主人公エテロを演じ、『花咲くころ』のテミコ・チチナゼが共演した。
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映画『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』は、関西では、1月10日(金)より京都・烏丸の京都シネマ、1月18日(土)より大阪・十三の第七藝術劇場で公開。また、神戸・元町の元町映画館でも近日公開予定。
無表情な人物による独特な間合い。シンプルながら細部まで行き届いた画面構成と印象的な色彩設計(そして、印象的な犬)。ヨーロッパ映画に多少なりとも造詣のある読者ならば「お前はカウリスマキの諸作品でも観たのか」と訝しがられるかもしれないが、1985年生まれの新鋭エレネ・ナヴェリアニ監督は、カウリスマキを始め、国も生まれた年代も異なる巨匠たちのシグネチャーを取り入れながら、本作を「自分の表現」として見事なまでに現代的の映画として昇華させている。
映画の主人公はジョージアの小さな村で暮らす48歳のエテロ。彼女が思いがけずセックスを経験したことで、動き出す状況・そこに生じる感情・それに伴う人生の局面が描かれているが、何よりもこの主人公像に現代的な響きがある。日本でも昨年『団地のふたり』といった作品がTVシリーズとして制作された通り、これまで見落とされてきた中年女性の(性を含めた)詳細な機微を語る作品は一つまた一つと増えてきている。そして、これはフェミニズムの土壌を起点に国境を超えた同時代があり、いま求められているる必然のテーマだとも云える(エテロが友人の娘の聴いている音楽(Riot Grrrl Sessions)に興味を示すシーンは非常に確信的)。
出し抜けに訪れた“きっかけ”によって生じた状態・状況の変化、それによって彼女は新たな感情を発見する。1人でいることの豊かさと、誰かと愛を語り合う素晴らしさ。どちらがより良いという話ではなく、いざ二つ並べばそこにはある種の二律背反性が生じるであろう。しかし、胸に手を当て考えてもみてほしい。「自分が“いま”どうしたいか」なんて他ならぬ自分自身が、実は最もわかってなかったりしないだろうか?そこには大なり小なりの矛盾は生じるものであるが、むしろその矛盾、言い換えれば「揺れ動く感情の経緯(いきさつ)」にこそ、表現としてキャプチャーするべき「人間のありのまま」があるのではなかろうか(奇しくも新春に放送された某ドラマにて「今日の気持ちは明日変わるかもしれない」といった台詞があったことを思い出した)。
等身大の人間性を本作は丹念な演出によって映像に織り込める。人物に対して節度ある距離感で、フィックスで、時にはゆっくりとしたパンにより、カメラは捉えていく。ここにこそ、筆者が冒頭に挙げた巨匠との共通性、つまり「市井に生きる個人にこそ光をあてるべき物語がある」という信念を感じるのである。
fromhachi
- キネ坊主
- 映画ライター
- 映画館で年間500本以上の作品を鑑賞する映画ライター。
- 現在はオウンドメディア「キネ坊主」を中心に執筆。
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