人間と幽霊が繰り広げる愛と抵抗を描く『ユースフル・ゴースト』がいよいよ劇場公開!
©2025 185 FILMS, HAUT LES MAINS, MOMO FILM CO.
妻を亡くした夫と死後に掃除機として舞い戻った妻の関係を描く『ユースフル・ゴースト』が7月10日(金)より全国の劇場で公開される。
映画『ユースフル・ゴースト』は、愛する妻を亡くした男性と、掃除機に宿って彼のもとへ戻った妻が繰り広げる壮大な愛と抵抗の物語を描いた、タイ発の奇想天外なホラー映画。死後も現世にとどまり夫との愛を深めた女性メー・ナークにまつわるタイの怪談「メー・ナーク・プラカノーン」に着想を得て、記憶と忘却、個人と社会、愛と有用性といったテーマを盛り込みつつ、コメディ、ロマンス、ホラー、SF等の様々なジャンルを横断して描く。粉塵公害が深刻化するバンコク。最愛の妻ナットを呼吸器疾患で亡くしたマーチは、悲嘆に暮れる日々を過ごしていた。そんな彼のもとにナットの魂が掃除機の姿を借りて舞い戻り、ふたりは再び愛を確かめ合う。その頃、マーチの家族が経営する工場では、死亡した従業員の霊が機械に取り憑き、操業停止を余儀なくされていた。霊に悩まされる家族や社会から拒絶されたナットは、工場の除霊に協力することで、自分が“役に立つ幽霊”であることを証明しようとする。
本作では、同じくメー・ナークの怪談を描いた『愛しのゴースト』でメー・ナーク役を務めたダビカ・ホーンが主演を務め、掃除機に宿る幽霊という難役を演じた。監督・脚本は、本作が長編デビューとなるタイの新鋭ラッチャプーム・ブンバンチャーチョーク。2025年の第78回カンヌ国際映画祭の批評家週間にてグランプリを受賞した。

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映画『ユースフル・ゴースト』は、7月10日(金)より全国の劇場で公開。関西では、大阪・梅田のテアトル梅田や京都・烏丸御池のアップリンク京都や兵庫・神戸のシネ・リーブル神戸や奈良・橿原のユナイテッド・シネマ橿原で公開。
掃除機のノズルが、夫のシャツのボタンを器用に外していく。愛撫はやがて乳首へと滑り、夫は快楽に咽ぶ。当然、傍らの誰にも、ことの切実さは理解されない、戸惑うばかりだ。それは、この光景をスクリーン越しに目撃してしまった私にも当てはまる。
兎角、この映画は最初から自由で風変りだ。フィックスで彫像を捉えてはカットが切り替わり、またフィックスで人を、街を、粉塵を捉えていくと思いきや、奇妙な入れ子構造(シームレスなナレーション切り替え)が起こる。
ある男――自らを”アカデミック・レディボーイ”と名乗るゲイの視点人物――のもとに、掃除機の修理工が異様な早さで現れ、彼の口を通して、マーチとナットという夫婦の顛末が語られていく。語りが語りを生み、像が像を呼ぶ。この多重の額縁ごしにしか、私たちは物語へ辿り着けない。誰かの記憶を、また別の誰かが語り直す――その伝言の遠さのぶんだけ、像は自由になる。
“useful”という単語に思いを馳せていく。題名を直訳すれば「“使える”幽霊」。物語のなかで「使える」という語は、おかしみと悲しみを両手に抱えている。そもそも「使える」とは何だ。人間に対して使っていい言葉なのか。権力にとって都合のいい幽霊だけが”useful”と認められ、飼い慣らされる。そうでない幽霊は消されてしまう。この構図は、遠いタイの寓話の話ではない。「使える」「使えない」で人間を選り分ける物差しは、たとえば日本語の「生産性」という語に、あまりにも容易く接続してしまう。
“useful”には、もう一段深い刃がある。妻は「使える霊」として体制に認められることで、存在を認められていく。夢に入り込み、人の記憶を消す――その介助人のような立ち回りを引き受けることで、彼女は遠巻きに家族の一員として、社会の一員として、辛うじて座を得る。だが、その有用性の対価は重い。彼女が消してまわるのは、他の誰かが囚われている、あるいは必死に手放すまいとしている記憶であるから。
使える側に回るということは、使えない誰かを踏むということ。当然、彼女は恨まれる。他人の記憶を消す片棒を担がされているのだから。そして映画は、その構造的な残酷さからも逃げない。体制に有用と認められたマイノリティは、別のマイノリティを踏み台にすることで、その承認を買う。妻が「使える霊」へと自らを差し出していく過程は少々図式的に過ぎる読みかもしれないが、同化と引き換えに何かを売り渡してしまう、あらゆる周縁の存在の姿が、そこに透けて見えてくる。
幽霊を忘れさせるために、電気ショックが繰り返し映されていく。この画は、極めて暴力的だ。最初にそれを受ける夫の姿もだが、やがて妻自身がその介助人のような立ち回りを請け負うに至って、暴力は幾重にも折り重なる。この反復される電気ショックの画から、私は別の記憶を否応なく呼び起こされてしまった。かつて先進諸国が、クィアな存在を「矯正」しようとして、その脳に電流を流した歴史のことだ。愛する者を、愛してはならない者へと書き換えるための非人道的行為。この映画の電気ショックは、記憶を消す装置であると同時に、まさにその「過ちの記憶」そのものを画面に呼び戻す。忘却を強いる暴力を描きながら、それ自体が、忘れてはならない歴史を改めて刻みつける。忘れないこと、覚えていること。作中に形を変えて何度も奏でられる主題は、決して綺麗な標語ではない。忘れられた瞬間に、一人の存在が本当に消えてしまう世界で、それでも覚えていようとすること。その、ほとんど無力なまでの意志のことだ。
だが、この映画は途方もない場所へ雪崩れ込む。ここで何が起こるかは書かない。ただ、こう言うだけにとどめておく――そこで起こるのは、いわば「記憶の復讐劇」と言ってよかろう。忘れさせられた者たちが、消されたはずの者たちが、覚えていることそのものを武器にして牙を剥く。ある意味で無力に見えていた「覚えている」という意志が、見事に反転する。それがどれほどエクストリームな画になるか、は鑑賞するあなたの目で確かめてほしい。
振り返れば、この映画にはずっと、私たちの代わりに戸惑い、私たちの代わりに怒ってくれる者がいた。掃除機に憑いた語り手の話に耳を傾ける、あのアカデミック・レディボーイだ。掃除機の愛撫に絶句する権利も、記憶を消してまわるナットに憤る権利も、彼が先に引き受けてくれていた。だから安心して、私たちはこの映画の距離の遠さに、身を投げていい。戸惑っていいのだ。義憤に駆られていい。
掃除機と人間の奇天烈極まりない性愛から、記憶による鮮やかなカウンターまで。作り手のイシューと、スクリーンに象られる像。その距離の、途轍もない遠さ。一つの感慨には、到底行き着かない。そして、それこそが映画を観る楽しみではなかったか。現実ではありえない、おかしなことが起こるのを観るために、我々はスクリーンの前に集う。既に知っていることに頷くためではなく、未知の感触に出会うために。
fromhachi
- キネ坊主
- 映画ライター
- 映画館で年間500本以上の作品を鑑賞する映画ライター。
- 現在はオウンドメディア「キネ坊主」を中心に執筆。
- 最新のイベントレポート、インタビュー、コラム、ニュースなど、映画に関する多彩なコンテンツをお伝えします!

















