新天地を目指してNYの空港に到着したカップルが、密室で不可解な尋問を受ける『入国審査』がいよいよ劇場公開!

©2022 ZABRISKIE FILMS SL, BASQUE FILM SERVICES SL, SYGNATIA SL, UPON ENTRY AIE
ベネズエラからスペインへ移住した、アレハンドロ・ロハス&フアン・セバスティアン・バスケス監督の実体験を基に、新天地を目指してNYの空港に到着したカップルが、密室で不可解な尋問を受ける『入国審査』が8月1日(金)より全国の劇場で公開される。
映画『入国審査』は、移住のためアメリカへやって来たカップルを待ち受ける入国審査での尋問の行方を緊迫感たっぷりに描いた、スペイン発の心理サスペンス。スペインのバルセロナからニューヨークに降り立ったディエゴとエレナ。エレナがグリーンカードの抽選で移民ビザに当選し、事実婚のパートナーであるディエゴとともに、新天地での幸せな生活を夢見てやって来た。しかし入国審査でパスポートを確認した職員は2人を別室へ連れて行き、密室で拒否権なしの尋問が始まる。予想外の質問を次々と浴びせられて戸惑う彼らだったが、エレナはある質問をきっかけにディエゴに疑念を抱きはじめる。
本作が監督デビューとなるアレハンドロ・ロハス&フアン・セバスティアン・バスケスが監督・脚本を手がけ、故郷ベネズエラからスペインに移住した際の実体験に着想を得て制作。わずか17日間で撮影した低予算の作品ながら、サウス・バイ・サウスウエスト映画祭2023に正式出品されるなど、世界各地の映画祭で注目を集めた。『記憶探偵と鍵のかかった少女』のアルベルト・アンマンがディエゴ、『悲しみに、こんにちは』のブルーナ・クッシがエレナを演じている。
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映画『入国審査』は、8月1日(金)より全国の劇場で公開。関西では、大阪・梅田の大阪ステーションシティシネマや難波のなんばパークスシネマ、京都・三条のMOVIX京都、神戸・三宮のkino cinema 神戸国際で公開。

公式記録では上映時間77分(エンドクレジットを除くと70分強)。商業作品としてはかなり短い部類でありながら、これほど“はじまり”と“終わり”で明確な“距離”を生じさせる映画も珍しい。無論、飛行機移動による物理的な距離の直喩ではない。導入と結末でまるで異なる感情に立たされる。そんな映画体験だった。
冒頭、バルセロナで空港に向かうタクシーの中、仲睦まじい様子を見せるディエゴとエレナ。ラジオから流れ込むのは、第一次トランプ政権によるメキシコ国境強化政策のニュース。短いシークエンスで、彼らの心理(異国での新生活への期待)と、後に効いてくる設定の種まきがすでに完了している。特に、ディエゴがベネズエラ出身であるという点は、本作の後半で重要な意味を持ってくる。物語の大半は、アメリカの空港内、それも尋問室で展開していく。尋問官とのやり取りは、我が国でも報道などで知りうるが、想像以上に苛烈だ。荷物は容赦なく開けられ、電子機器は遮断される。入国の目的に始まり、カップルの私生活の隅々まで執拗に取り調べられていく。空港から尋問室へと「奥へ奥へ」進行する構造は、そのままディエゴとエレナの主導権――いや、人権の剥奪過程を表現している。その二人の生殺与奪を握るのは、ナショナリズムの気配を言葉の端々に漂わせるアメリカ側の尋問官。歴史を辿れば強引に入植した側が、今は「排除する側」へと回っている構図。その高圧的な言動と、圧迫感ある空間演出は、観客に対して人道的な違和や観客自身のストレスを容赦なく突きつける。
中盤、ディエゴは一人になった場面で、ある行動をとる。その瞬間、私は思わず「やめておけ」と心の中でつぶやいていた。そこでハッと気づく。いつの間にか、自分が尋問する側の視点に寄ってしまっていたことに。強権的な制度に対する違和感が、すでに自分の中で無効化されていたのだ。どんなに理不尽な制度でも、ひとたび施行されてしまえば、第三者としてはかくも容易く“内面化”してしまうのか――本作は、そんな観客自身の無自覚な同調や受容までも暴き出す。だが、この映画が抉り出すのは、現実政治へのプロテストだけではない。むしろそこからもう一段、深く潜っていく。思い返せば、冒頭からディエゴには落ち着きのなさや、そそっかしさが漂っていた。飛行機の中で得体の知れない服用液をこぼす場面など、細かな伏線は枚挙にいとまがない。演じるアルベルト・アンマンの体躯と表情が、その人物像を実に巧みに体現している。そして、尋問室でのやりとりが進むにつれ、エレナとの関係性の雲行きが変わりはじめる。単なる「入国審査」を超えて、パートナーシップへの“揺さぶり”が前景化していく。そこで繰り広げられるのは、「知られたくなかった過去」が、「最も知られたくない相手」に開陳される、修羅場とも言うべき空間だ。観客は、そのような“極めて居心地の悪い時間”と徹底的に対峙させられる。
あれほど肩を寄せ合っていたふたりの行く末に注目してほしい。アメリカという新天地での展望、パートナーとの良好な関係――それらは、大きく括れば幻想(共同幻想)のもとに立脚したものかもしれない。本作は、その幻想が霧散したあとの“残された者”の姿を、わずか70分あまりで如才なく描き切っている。冒頭と同じ楽曲が終盤に再び流れるが、聴こえ方は全く異なるだろう。形式的には円環構造を取っているが、感情的にはまるで別の“出口”に立たされる――思えば遠くへ来たものだ。
fromhachi

- キネ坊主
- 映画ライター
- 映画館で年間500本以上の作品を鑑賞する映画ライター。
- 現在はオウンドメディア「キネ坊主」を中心に執筆。
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